アイディア作品の部
楽ラク物干し竿 山田 千遥(鍋島中1年)

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なんでももてるくん 伊東 優菜(鍋島中2年)

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ペットボトルホルダー~ペモ~ 木下 あゆみ・宮木 卓麻(鍋島中2・1年)


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エコリュック 津山 郁美(鍋島中2年)


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壁新聞の部
ユニバーサル新聞 石橋 幹太(三日月小5年)

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わが家新聞 松尾 知咲(三日月小4年)

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作文の部
今、大切な事 中島 由貴(佐賀清和中1年)
私は国語の授業で「ユニバーサルな心を目指して」という勉強をした。その時、班でユニバーサルデザインについていろいろと調べた。みんながよく知っていたのは「プニョプニョピン」や「たまホッチ」など、私たちのよく使う文房具が多かった。
そこで私は、他にどういうものがあるのかと興味をもち、母に聞いてみた。母は、「ユニバーサルデザインかどうかはわからないけれど」と話しはじめた。実は私の母は難病で、雨の日や、冷たい物に長く触れていると関節が動きにくくなる。そんな母が最初に挙げたのは「水道の蛇口」だった。母が言うには昔の蛇口はつかんでひねらなければならなかったが、最近のものは上げ下げ式なので関節が痛くても水仕事がやりやすいのだそうだ。次に挙げたのは「ドアノブ」。これも昔はつかんでひねったり、指をかけて引いたりするものが多かった。しかし、今では押すだけで開閉できるドアや、取手の大きな引き戸など、力の弱い人でも扱いやすいようになっている。
私は母との会話を受けて、他に何かないかなと町中をよく見るようになった。そこで、ここにこそユニバーサルデザインが必要ではないかと思うものがあった。それは誰もが毎日使っている「道」である。私は自転車通学をしているが、歩道と自転車道がいっしょになっている所がある。その道はすごくデコボコしているのだが、前にも増して気になりはじめた。普通にこいでいても前のカゴに入れている荷物が飛び跳ねるぐらいだ。こんな道でお年寄りの方や、足の不自由な方は安心して歩けるのだろうか。誰だって整備された道がいいに決まっている。みんなが安心して歩ける道をつくるのも、ユニバーサルデザインなのではないだろうか。
私は、文房具のような小さい道具も必要だと思う。でもそれ以上に、道路のような生活に必要な根本的なものにこそもっと目を向けるべきだと思う。こういう町の中の根本的なものからユニバーサルデザインを意識したものに少しずつ変えていけば、みんなの不安は無くなっていくだろう。そうすれば、障害を持った方であっても、不安なく社会にどんどん出ていけるのではないだろうか。
だからこそ、もっと大きな視点で身の周りを見て、今、必要とされるユニバーサルデザインとは何なのかということを、一人ひとりが考えることが大切であると思う。
「ユニバーサルデザイン」について 上赤 菜都美(佐賀清和中2年)
現在、神埼に住んでいる私の祖父は障害者です。屋根を修理していて転落したことが原因です。今は下半身が動けなくなってしまいましたが、一生懸命がんばって生活しています。
そんな人々のための工夫を「バリアフリー」とか、「ユニバーサルデザイン」などと呼ばれています。でも本当に障害者が安全に暮らせるような工夫なのでしょうか。佐賀駅で考えてみると、少し使いにくい所もあります。しかし、ある時こんな光景を目にしました。佐賀駅ではエスカレーターは、車いすなどの階段を使えない人々のために、段差を合わせて、車いすの人でも乗れるようにします。私がその時驚いたのは、周りの人々がいやな顔もなく、階段を登っていったことです。私はユニバーサルデザイン以上に感銘を受けました。最近の人は思いやりが足りないと言いますが、ちゃんと思いやりはあるんだとうれしくなりました。
また、私の小学校に少し脳に障害がある子がいました。ちょっといやなことがあったり、気に入らないことがあったりするとすぐにかんしゃくをおこしていました。でもその子はちゃんとみんなのことを理解していたし、みんなもその子のことを理解していると私は思っていました。
「バリアフリー」は、本当に障害者と健常者とのバリアを取り去ったのでしょうか。「ユニバーサル」この言葉は、ただ外面だけの美しい言葉なのでしょうか。健常者は障害者の外面しか見ていないのでしょうか。いいえ、少なくとも私が見た人々は障害者のためにいろんな手助けをしていました。みんな障害者に思いやりを持って接していました。私は相手を「障害者」ではなく、「一人の人間」として接する人が一人でも増えることを願っています。みんな平等だという精神を大切にすべきです。
「ユニバーサル」とは、「だれでも楽しく暮らせる世の中」という意味です。この輪には「平等」という前提があります。すべての人が一人の人間として、他者に思いやりを持って手助けする精神こそがユニバーサルデザインにつながっていくことでしょう。
「活きる」ユニバーサルデザインへ 松野 優子(佐賀清和中2年)
私は「UD(ユニバーサルデザイン)」という言葉を知り、興味を持っていろんなUDを探してみたことがありました。町を歩いていると、けっこういろいろなものが見つかりました。点字ブロックもその時見つけましたが、歩き始めてしばらくして気付きました。また、その他の物もよく注意して見ないと気付きませんでした。それは、UDがもう町に溶け込んでいるからで、多く普及しているということにもなります。しかし私は、その分UDの持つ本当の意味が忘れられかけているのではないか、と思いました。
例えば点字ブロック。駅のホームなど、町のいたるところで見られます。が、実際歩いている時や電車を待っている時に、「これは視覚障害者の方々のためにあるのだ。」と思ったことはありませんでした。知ってはいましたが、その時その場で、「ではここに立ってはいけないな。」と考えたことはあまりありませんでした。実際私は、点字ブロックの上に自転車を置いたこともあるだろうし、その上に立ったこともあります。それが視覚障害者の方々にとってどれだけ困ることであったか、そのちょっとした行為がもしかしたら人命に関わる大事故になったかもしれないと思うと、本当に怖いです。
そんなふうに考え始めたのは、小学校六年生の時でした。それからは、点字ブロックのみならず、いろんなことを気にかけるようにしています。点字ブロックの上に物を置くなんてことは、もうしていません。
しかし、やはりどこかで、障害者や高齢者の方々が困られるようなことを、まだ私はしているかもしれないのです。それは、ちまたにあふれるUDが、何のためにあるのかを知るチャンスがほとんどないからです。私はたまたま興味を持って調べてみただけであって、調べる前にUDのことを知るチャンスというのはありませんでした。ましてや知ることも調べることもなく、UDの意味を本当に理解するチャンスが全くなかった人も多くいるでしょう。そういう人が、障害者や高齢者の方々が危険にさらされてしまうような行為を知らず知らずのうちにしてしまっているのです。
UDは、せっかくあっても、みんながその存在や使い道を知らなければ意味がありません。障害者や高齢者の方々は、それを頼りに生きていらっしゃるのですから、私たちがそれを妨げてはいけません。みんながUDの意味を知るチャンスを、もっとつくらなければなりません。
そういうチャンスをたくさん大人がつくることで、本当にユニバーサルデザインが活きてきて、だれもが生活しやすい社会になるのではないでしょうか。
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